年表

1928年(昭和3年) 0歳 

2月13日、横須賀市逸見町西谷戸に誕生、父は海軍軍人。本名・暁(さとる)。暁という名前は、明け方に生まれたことと、後にアララギ派の歌人となる父の雅号「暁花」から。12月、父の赴任地、舞鶴に移る。 

 

1930年(昭和5年) 2歳 

横須賀に戻る。同じ西谷戸柿の谷戸の新しい家に住む。横須賀市根岸の錬兵場で、両親と双子の姉と共にバスを待つ間、クローバーの野原で父が逆立ちをして見せたのが、人生最初の記憶である。 

 

1943年(昭和9年) 6歳 

横須賀市立辺見尋常高等小学校入学。5歳から自分で本を読んでいた暁には授業が退屈でしかたなく、大人しく席に座ってはいなかった。たちまち腕白小僧の評判が立つ。 

  

 

 1938年(昭和13年) 10歳

 

現在の横浜市戸塚区(旧鎌倉郡戸塚町)に移る。戸塚尋常高等小学校へ転校。横須賀では腕白で有名だったのが、こちらではなぜか大人しい子と思われ、仕方なく大人しいフリをし通すうち、まさかの優等生に。 

 

1940年(昭和15年) 12歳 

神奈川県立第三中学校(現・県立緑ヶ丘高等学校)入学。気の合う友人が出来、楽しい中学生生活が始まった矢先、双子の姉の片方を病気で亡くす。その秋、追い討ちをかけるように可愛がっていた末の妹を亡くす。中学では元気にしていたが、時々一人になって空想にふけるのが習慣になった。 

 

1941年(昭和16年) 13歳 

本牧通りの本屋で石井桃子さん訳の「熊のプーさん」を発見、購読。初めて宮沢賢治を読んだのもこの頃。「オッペルと象」「やまなし」がお気に入りに。 

 

1942年(昭和17年) 14歳 

6月、父がミッドウェイ会戦で戦死。通知があったのはその年の秋。長男である暁が喪主となって海軍葬に参列した。一列に並んだ水兵の撃つ三回の弔銃。そのよく揃った厳粛な音は、鋭い痛みと共に未だ著者の耳に残っている。 

 

1944年(昭和19年) 16歳 

晩秋。仲間の少年たちと夜勤の勤労動員に向かう中、戦争が終わったら皆何をする?という話題に。それぞれが自分の夢を語る中、暁は「生きていたら童話を書こうと思っている」と。仲間は少し驚いたが、「お前らしいな。面白い話書けよ」と励ましてくれた。翻訳本を片端から読みあさったのもこの頃。ビヨルンソン、ラゲルレフ等、北欧の作品が特に好きであった。 

 

1945年(昭和20年) 17歳 

空襲下の3月、中学卒業。海軍水路部に入るが、肺結核の疑いで療養の身となり、7月、両親の郷里である北海道旭川に疎開。 

 間もなく終戦。玉音放送を聴きながら、脳裏には何年も聞かなかった豆腐屋のラッパの音が響く。 

澄んだ大気と身欠きにしんで肺結核を克服。 

 終戦後、旭川進駐軍のキッチンボーイとして働き、家族の家計を支える。少し英語のわかる暁は、 米兵に「オウリィ」(半可通)と呼ばれて可愛がられた。 

 

 

 

 1946年(昭和21年) 18歳 

4月、横浜に戻る。関東学院工業専門学校(旧制)建築科の補欠募集を受験、後期入学。学業と勤労の合間に童話を書く。 

 

4月に「赤とんぼ」が創刊。亡くした帽子(手のひら島はどこにあるの前身)のプロローグ部分を投 稿し、藤田圭雄氏に激励される。また、5月創刊の「童話」を読み投稿、後藤楢根氏に認められ、9月号に大男と小人が掲載される。 

 

1949年(昭和24年) 21歳 

21歳 3月卒業。月、横浜市役所に就職するが、職場に合わず、10月転出の扱いで教育委員会へ。 横浜市立原中学の数学教師となる。 

5月、後藤楢根氏の紹介で長崎源之助氏と知り合い、一緒に磯子の平塚武二氏に会いに行き、以後師事。「後藤楢根さんと藤田圭雄さんに、面白いものを書くと言われました」と報告すると、平塚氏 に「困ったことになったなあ」と言われる。「なぜですか?」「そりゃもしかしたらほんとかもしれないじ ゃないか」 

 

 

1950年(昭和25年) 22歳  

3月 同人誌「豆の木」創刊。4月、井戸のある谷間を掲載。 

 

1952年(昭和26年) 24歳 

4月 同僚の加藤愛子と結婚。(おチビ先生のモデルと言われている。著者は口を濁しているが、後に夫人を一目見た人は、皆異口同音に『あ、オチビさん!』と言ったそうである) 

8月、広島図書株式会社「ぎんのすず」編集部勤務。オールオフセットの割付作業で原稿を丸写し する必用があり、いつのまにか文章力が付く。 

 

1954年(昭和29年) 26歳 

3月、長女誕生。豆つぶほどの小さないぬのおチャメさんのモデルと言われている。

 

11月、実業之日本社入社。「少女の友」編集担当(翌年教科書部へ)。 

 

 

 

 

 

1957年(昭和32年) 29歳 

だれも知らない小さな国第一稿が書き上がり、平塚武氏に見せた所「もっと面白くなる」と最 初の2~3ページを真っ赤にペン入れされた。悔しくて、それなら今の自分にはこれ以上は書けない、という最高の文章を書こう、と書き始めたのが2稿の第一章。文章そのものが話を綴りはじめ た。 

 

1958年(昭和33年) 30歳 

12月末3年前から取り掛かっていただれも知らない小さな国を書き上げる。晦日、茶の間の炬燵に入って読み始めると、炬燵の火が消えるのも気付かす、最期まで夢中になって読んでしまっ た。『いったい何が出来たんだろう!』と思う。 

 

1959年(昭和34年) 31歳 

3月、私家版だれも知らない小さな国出版、8月、講談社から正式に出版され、毎日出版文化賞 を受賞。肺結核が再発。寝不足が続いたので無理も無い、と思う。新薬にて治癒。 

 

1960年(昭和35年) 32歳 

児童文学者協会新人賞受賞 

 

1961年(昭和36年) 33歳 

国際アンデルセン賞国内賞を受賞 

 

 

 

 

1962年(昭和37年) 34歳 

8月、講談社よりだれも知らない小さな国の続「豆つぶほどの小さな犬刊行。前作で、日本 の風土に合ったファンタジーの存在を確かなものにした著者は、この作品でコロボックルを思う存分遊ばせた。心から楽しい創作だった。 

 

1963年(昭和38年) 35歳 

7月 実業之日本社が、児童図書出版部を設立、同部に所属。社内原稿で引き受け手のない教育 童話を書き、自ら編集。それが机の上の運動会そのシリーズでの一番人気となった。 

 

1965年(昭和40年) 37歳 

9月、コロボックル物語3星から落ちた小さな人(講談社)、この刊より、村上勉氏が挿絵を担当。 運命のパートナーとの出会いである。産経児童出版文化賞を受賞 

11月長男誕生。あかんぼ大将シリーズふしぎな目をした男の子他、たくさんの幼年童話のモデルとなる。後、いくつかの作品に、しんしょう・けんのペンネームで挿絵を描く。 

 

1967年(昭和42年) 39歳 

おばあさんのひこうき(小峰書店)が、野間児童文芸賞、国際アンデルセン賞国内賞、児童福 祉文化賞(厚生大臣賞)を受賞。当事の編集長、児童文学者大石誠氏発案の「絵童話」の企画に 合わせた結果出来た作品。読売4枚童話羽衣が前身。 

 

1970年(昭和45年) 42歳 

6月、わんぱく天国刊行(講談社)刊行。数少ないファンタジー以外の作品。実業の日本社嘱託社員に。執筆に専念。 

 

1971年(昭和46年) 43歳 

12月、コロボックル物語4 ふしぎな目をした男の子(講談社)。姉弟子、いぬいとみこ氏の依頼により岩波書店より刊行すべく原稿を書き始めたが、講談社からクレームが入り、講談社刊行となる。岩波書店の原稿用紙の紙質が良く、書きやすかった。 

 

1972年(昭和47年) 44歳 

5月、ジュンと秘密の友だち(岩波書店)コロボックル物語4作目の換わりに、岩波書店に書いた作品。いぬいとみこ氏に「待った甲斐があった!」と言わしめた秀作に。多くの作品群のうち、著者 に、書きはじめからラストシーンわかっていた、たった一つの作品でもある。

10月佐藤さとる全集12巻初版刊行

 

 

 

  

1976年(昭和51年)48歳

講談社文庫 佐藤さとるファンタジー童話集 第1巻そこなし森の話初版

 

1978年(昭和53年)50歳

講談社新書ファンタジーンの世界初版。ファンタジー論の名著と言われている。

 

1980年(昭和55年) 52歳

月刊「本」に、机上志誌異(現・机の上の仙人)の連載開始。

 

1982年(昭和57年) 54歳 

机上志誌異講談社)刊行。(2014年5月ゴブリン書房より復刊)著者曰く、『言葉の手品』

佐藤さとるファンタジー全集全16巻(講談社)発刊。 コロボック物語第5巻ちいさな国のつづきの話執筆との交換条件の刊行であった。12年ぶりのコロボックルシリーズは、完結編として完璧なものを目指したためなかなか出来上がらず、首を長くして待っていた講談社の担当編集者Kさんは、この年出会上がった草稿を風のように持ち去った。

 

1983年(昭和58年) 55歳

5月、児童文学同人誌「鬼ヶ島通信」発足。コロボックル物語第5巻ちいさな国のつづきの話講談社)5月脱稿、10月発刊ファンタジーの「入れ子構造」である為、コロボックルシリーズの中で一番難しかったという。シリーズの中で著者が最も好きな作品でもある。

机上案志異新仮名草子と改名、装丁を変更して刊行。

 

1987年(昭和62年) 59歳

12月、講談社の「イン・ポケット」に1年間連載していた小さな人の昔の話(講談社)に加筆、コロボックル物語別巻として刊行される。(後に、文庫版ではコロボックルむかしむかしと題名を変える) コロボックルシリーズ絶筆宣言。

 

1988年(昭和63年) 60歳

児童文学への貢献を評価され、巌谷小波文芸賞を受賞。

 

 

 

 

 

1959年(平成元年) 61歳

10月 鬼ヶ島通信に天狗童子連載開始、第一講脱稿

 

1991年(平成3年) 63歳

5月上田秋成 雨月物語 現代語訳刊行(講談社)

この作品に限り、児童ではなく、全国の国文学学生からファンレターが。

 

1993年(平成5年) 65歳

11月 1年間「ちゃれんじ」に連載していた、ふしぎなあの子刊行(あかね書房)

ふしぎなあの子をきかっけに、動物を主人公にした、ファンタジー理論による幼年童話に挑戦。以後多数執筆。

正確な縮尺の鉄道模型ジオラマ制作に熱中。曰く『天地創造の楽しみはファンタジーに通ず』

 

1997年(平成元年) 68歳

3月 赤んぼ大将シリーズ最後の赤んぼ大将さようなら刊行(あかね書房)

 

1998年(平成10年) 69歳

10月ひめさまと20日ねずみ刊行(大日本図書)この作品で、人質となって非業の死を遂げたご先祖の姫への供養を果たした。著者の念願であった。25

 

2000年(平成12年) 71歳

11月 考えるところあって25年間務めた野間児童文芸賞選考委員を辞退。

 

2003年(平成15年)75歳

3月 エッセイ集だれも知らない小さな話刊行(偕成社)

 

 

2005年(平成17年)77歳

11月 神奈川文化賞受賞。現代の子供を取り巻く環境についてコメントを求められた壇上の著者は、「子供に本を、本物のファンタジーを読ませなさい!」と一言。

 

2006年(平成18年)78歳

6月 本朝奇談 天狗童子 刊行(あかね書房)19年ぶりの長編創作文学。著者円熟期のファンタジー最高峰であり、おそらく最期の長編ファンタジー。

 

2007年(平成19年)79

5月 本朝奇談 天狗童子赤い鳥文学賞を受賞この文学賞は、著者の師匠、平塚武二氏が批判的であったため、その弟子である著者は長年受賞候補から外されていた。著者受賞後、程なくこの賞は終了する。

8月 神奈川近代文学館にて「佐藤さとるコロボックル物語展」を開催。文学館始まって以来、最高の入館者数となる。

10月 第42回エクソンモービル児童文学賞受賞。

 

2009年(平成21年) 81歳

12月 ノンフィクション海の志願兵(あかね書房)刊行。 歌人であり、軍人であった父、完一の伝記。執筆中、著者は少年の日に失った亡き父との心の交流を存分に果たす。

 

2010年(平成22年) 82歳

4月 旭日小綬章受賞。戦死した父が命と引き換えに受賞した勲章と同じものであった。著者は、国からというより父から贈られたもののように思う。

11月 著作権管理のため、株式会社あかつき 設立。社名となった「あかつき」は、著者の父、完一の雅号の一部であり、著者の本名、暁の訓読みでもある。

 

2012年(平成24年) 84歳

2月 誰も知らない小さな国私家版復刻版 刊行(株式会社あかつき コロボックル書房)。付録のコロボックル物語ブドウ屋敷の謎絶筆を宣言していたコロボックル物語の書下ろしとなった。最初と最後のコロボックル物語。

 

2014年(平成26年) 86歳

10月 ノンフィクションオゥリイと呼ばれたころ刊行。(理論社)著者自伝。激動の昭和20年を挟み、コロボックル物語誕生の経緯などが書かれた一冊。

 

2016年(平成28年) 88歳

3月 オウリィ・・の続きの年代のお話、コロボックルに出会うまで刊行。(偕成社)本作は小説仕立てで、主人公はわんぱく天国の加藤馨君。ファンタジー創作の指南書としての価値も指摘されている。

 

2017年(平成29年) 88歳

2月 没。書きたいものを全部書き尽くした、悔いはない、と。

 

 

 

 

 

 

 


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