こぼれ話

小川での出会い

 

 著者が小学校に上がるか上がらないかの頃、著者の母親が、知らない町の友人のところに、著者を連れて遊びに行ったそうです。小さな男の子は、女性同士の長話に飽き、散らない町を探検してみることにしました。

 

 いくつか路地を抜けると、小川に出ました。そこでは何人かの子供が水遊びをしていました。そのうちの一人の女の子と仲良しになり、ザリガニを取ってあげたり、葉っぱで水車を作ってあげたりしたのだそうです。母親が心配して探しに来たころには、陽が暮れかかっていたそうです。

 

 また、著者が旧制中学の頃、街頭に面白いテキヤのおじさんがいて、その口上を聞きに、よく学校帰りに寄り道をしたそうです。その時、同じようにそこに来て笑い転げていた、愛らしい女学生がいたそうです。

 

 大人になって著者が細君に出会った時、テキヤのおじさんの件は直ぐに話題になったそうですが、小川での出会いは、二人が結婚して何年も経ち、著者がその話を細君にするまで、二人ともそれが人生最初の出会いだったことに気付かなかったということです。

 

 ご存知のように、小川での出会いのエピソードは、後に『だれも知らない小さな国』の、重要なモチーフになっています。

 

 

 

 

 

 

 

小さなもの

 

 子供の頃から小さなものが大好きで、ミニチュアをコレクションしていた著者。

家族や友達もそれを面白がり、収集に協力してくれたそうです。

碁盤、キューピー人形、茶碗、雪靴、鍵、郵便ポスト・・・

精侯であればあるほど、小さければ小さいほど、大切に思えたそうです。

そして、それらの物は、今でもまるで手の中のあるように思い出せると。

 

 戦争を経てコレクションは散逸してしまい、集めたものにはすっかり執着が無くなったそうですが、今でも小さな物を見ると、つい買い求めてしまうそうです。

 

 著者のそんな性癖が、コロボックルを生んだ要因のひとつかもしれません。

 

 

 

 

 

 

分岐点

 

 著者が16歳、旧制中学4年生の早春のことでした。学校から上野の美術学校(現芸大)へ推薦してもらえることになり、家に帰って母親に報告したところ、「ここへお座り。おまえは長男ですよ。早く一人前になって、お父さんの代わりにきょうだいたちの面倒を見なければなりません。第一うちには絵の勉強をさせる余裕はありません」と言われました。

 

 父親は著者が14歳の時に戦死しています。少年の暁(さとる)は、素直に『それもそうだな』と思ったそうです。

 

 もしそこで美術の方へ進んでいたら、三文絵描きになったに違いない。自分より絵の巧い奴はゴマンといる。文章だから好きなように書けた。後々そう思ったそうです。

 

 運命なのでしょうか。

 

 

 

 

 

クリクルの剣

 

 

 

 

 

 

 「オウリィと呼ばれたころ」の表紙に書かれている小人の絵は、著者自信が描いたものです。

 

 昭和20年春、粟粒結核の宣告をされて海軍水路部から自宅療養(事実上免役)を命じられ、家にいた頃描いたものだそうです。

 

 描いたのは、子供の頃からこころの中にあった小人。描きながら浮かんだ名前は「クリクル」でした。(コロボックルに似てますね)クリクルが腰に下げている剣は腕時計の秒針だ、と思ったそうです。その頃、3針式(秒針のあるもの)の腕時計は、誰でも持てるものではなかったそうです。

 

 夏、旭川に疎開することになり、自宅を海軍クラブに提供することになりました。そこを管理する海軍下士官は、元時計屋さん。時計屋の時から持っていた製品の一つを、記念にと著者にくれたそうです。

 

 それはクリクルの剣が付いた、3針式だったそうです。秒針を見た著者は『あ、これだ!おんなじだ。先に描いちゃった』と思ったそうです。

 

 

 

 

88歳の男の子

 父の書斎を整理していたら、空き箱、空きビン、木端、包み紙、ネジや紐類などが、沢山出てきました。どうやら私の目を盗んで溜め込んだも物のようです。何時でも何でも工夫して作れるように、と思ったのに違いありません。「88歳の男の子」です。

 

 また、ポケットの沢山ある服が好きでしたが、そのポケットの一つ一つから、いろいろなメモ書きが出てきました。買い物用のメモもありますが、江戸時代の算法、油絵の具の色の名の由来、里歌の草稿、何処かわからない家の間取り図などなど、面白いものばかりです。昔は何かを思い付くとちゃんと手帳に書き留めていたようですが、歳を取ってからは、忘れないうちに、と「手あたり次第」書き付けたのかもしれません。

 

 

父が残した本

 2012年5月、両親と同居を始めた後、父が設計し、50年住んだ古家を解体することになりました。横浜市郊外で、周囲はすっかり開けたにも関わらず、そこだけは深い森のようで、少し住まないうちに、天井裏にハクビシンが住み、軒下からタケノコが畳を持ち上げる有様だったのです。本が増える度本の為に増築したような部屋々には、膨大な数の蔵書があり、結果トラック何台分もの本を処分することになりました。片付けの時間にも、取っておくスペースにも限りがあったのです。

 

 そんな中で、あれだけはこっちへ持ってきて、と頼まれた本も、かなりの数になりました。もう一度読みたい、手元に置いておきたいと、改めてネットで注文させられたものも少なくありません。そうして残った本は、父が本当に好きだった本ばかりということでしょう。

 

 父が亡くなり、色々の手続きが済んで気分が落ち着いた後、それらを読む楽しみが出来ました。私とは当然嗜好が違うのですが、何処が面白いと思ったのかが手に取るようにわかり、それが面白くて続けています。創作では人物が描けていることと構成が巧みであること、歴史書や科学書では、世界の仕組みや不思議が生き生きと語られていること。私はそう思うのですが・・。

 

 

泣きサトール

祖母の遺品の中にあった切り抜き
祖母の遺品の中にあった切り抜き

 父が子供の頃、苦味(クミ)チンキという名の胃腸薬の広告を見つけ、双子の姉の由美、久美のことを、ユミチンキ、クミチンキと呼んでは囃子立てたそうです。それがしつこかったため、姉たちはうっとうしい想いをしたようでした。

 その後、双子の姉たちが、ラキサトールという便秘薬の広告を見つけ、シメタとばかりに、弟が泣きべそをかく度に「泣きサトール」と呼んで逆襲したそうです。

 父は子供の頃体が小さく、男の子同士の喧嘩をまともにやっては勝てないので、『卑怯なことでも何でもして』、すばしこい足を生かして逃げた、ということです。ただし、一度泣きが入ると度胸が据わり、相手かまわず掛かって行ったそうで、そういう時は乱暴者の男の子でもその扱いに手こずったようです。サーちゃんが泣いたら用心しろ!は男の子たちの暗黙の了解でした。

 女の子を相手に取っ組み合いはありませんが、泣けば度胸が据わって馬鹿力が出る父も、『ヤーイヤーイ、ナキサトール』の合唱にはタジタジだったということです。

 

 

終戦記念日によせて

蒼龍
蒼龍

 父、佐藤さとるは、少年の頃に太平洋戦争を体験しました。しかし作品世界ではその思い出に直接触れることはなく、戦争反対を訴えるでもなく、ただ『戦争とま反対の物を書く』ことで、時代を超え、読者に大切なものを伝えてきた作家です。

 

 さとるは、14歳の時、ミッドウエィ海戦で父完一を亡くしていますが、その事で泣き言を言ったことはありませんでした。『職業軍人だったし、とうに覚悟はできてた。いつも家にいなかったから、戦死した後もそれまでとあんまり変わらなかったな』と。

  

 2016年の終戦の日、父は、14歳の少年が喪主として海軍葬に参列した時の話を始めました。昔話を滔々と語るのは父の常でしたので、私は、またはじまった、と軽い気持で聞いていました。葬儀の荘厳なありさまなどを、たった今見てきたかのように話していたのが『ずらっと並んだ兵隊が弔砲を2発、ダーン、ダーンと打って・・・』と言った後、急に黙りこんでしまいました。不審に思いそちらを見ると、父は硬直した表情をしていて、数秒後、号泣し出しました。その様子はとても激しく、慰めようもありませんでした。後にも先にも、父が泣いたのを見たのはその時だけです。

 

 老耄の故かもしれません。が、私は、父が74年間封印し続けた悲しみを、そこでやっと解放したのではないか、と思っています。6歳年下の妹である叔母は、今でも『お父さんを連れてった海が嫌い』と言います。 

                                    2022年8月15日

つづく

 

 

 

 

 

 

 


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